思いやれる人間は強い

嫌われる覚悟のある人間は強い

・嫌われる覚悟のある人は強い
・嫌われる覚悟のある人のほうが好かれる人には好かれる
・どんな風に生きたって誰からも嫌われない人なんていない
・なにか言えば嫌われるリスクがあるのは当たり前
・どうせ嫌われるならありのままの自分で嫌われる方が気楽
・好かれようと嫌われようと自分は自分
嫌われる覚悟のある人間は強い - まつたけのブログ

これ、若者向け、学生向け、未成年向けには、素晴らしい考え方だと僕も思います。

なぜかというと、この頃は、バランスをとることが難しく、また能力的余力、精神的余力(心)があまりないからですね。そういうのは、経験などによって養われるものだというものが大きいと思います。

嫌われる覚悟のある人が強いのは、
リミッターがない(制限がない)状態だからというだけの話です。

法律を守る人よりも、グレーなことをできる人のほうが強い気がするのと似たようなものかもしれないという「危険(リスク)」は意識すべきです。

ほどほどなら、「開き直り」効果で、人間強くなれます。


「若者向け、学生向け、未成年」あたりの人は、開き直っても、ほどほどに収まる傾向になるから、問題点(危険)がわかりにくいだけです。

思いやれる人間は強い

思いやりという部分までいかなくても、「言葉を選べる」人は強いわけです。同じことを伝えるにしても、表現方法はいろいろあるわけで、その中から選べる人は、強いのは当然でしょう。

言葉を選ぶだけで、人から好かれるようになるかもしれないわけです。

能力的余力、精神的余力(心)

能力的にすこし余力があればどうするだろうか?、精神的にすこし余力があればどうするだろうか?と考えて、行動すると良い方向に向くことも多々あります。

本質でないことで、人と衝突したり、人から嫌われたり、敵を作っても、良いことなんてないわけです。それも、「チリつも」的につみあがっていけば、どうなるかがわかるでしょう。

言葉選びは、実際には難しい

「努力した者が全て報われるとは限らんが、成功した者は皆すべからく努力しておる 」


「成功した者は全て努力しているが、失敗した者が努力していないとは限らない」

要は同じ事なんだけど、成功しなかった人を責めるニュアンスがなくなる
anond.hatelabo.jp/20140202114848


前半は、成功したい人に向けての発言で
後半は、また違う人向けの発言なんだと思う。

言葉を選びすぎると、インパクトが弱くなり、伝えられなくなる。

じゃぁ、「努力は大事」という一言じゃだめなの?というとダメだからこそ、成功した人は「皆」努力しているという風に表現するわけですね。

でもって、実際には、「皆」努力しているとは限らないんだけど、そういう細かい?ことを捨ててまで、そういう表現を選んでいるわけです。


思いやれる人間

人に、思いやりを強制する人ではないです。

思いやりが大事だというと、すぐに自身が他者に対してどうあるべきか?と考えずに、「思いやる」なんて損だとか言い出す人たちは、はっきり言ってダメな部類。

情けは人の為ならず」という言葉もありますが、これは、現代の日本ではもう有効でない言葉だと思います。

というのは、あまりにもサイクルが早い(スピードが速い)ので、「いずれは巡って自分に返ってくる」まではもたないというか、たぶん、途中で消えかねないからですね。

それでも、思いやれる人間は強いと思います。メリットが云々とかいいだすと、ダメだと思います。

自己犠牲まで行くと、ダメかも

なんでも程度問題ですから、自己犠牲的な思いやりはよろしくないかと思う。あくまで、言葉選び程度でできることをまずやるべきなんですね。

自己犠牲的といっても、時間10分損したとかそんなたわいもない損は、自己犠牲的とかいうのとは性質は違います。

朝の1分は貴重だけど、それはまた別の話。言葉を選ぶということと、論理武装するというのは別の話。


足元みられると、弱い

嫌われる覚悟がある人でも、足元みられると弱いことがあるので、要注意。

好かれようという思いが強い人は、足元見られてるので、
嫌われてもよいとおもうことで、対抗可能だということ。

ここで、嫌われてもよいと思っている人も、足元見られて、ドツボにはめられる方法があるので要注意。


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