「ビッチは殺されて当然という人たち」を、殺されて当然と思っていないだろうか?

「ビッチは殺されて当然という人たち」を、殺されて当然と思っていないだろうか?

たとえば、「殺されて当然」を「批判(非難)されて当然」に置き換えるとどうでしょうか?

「批判(非難)されて当然」というのも、ある意味暴力的では?とちょっとだけ思うんですね。

id:fujiponさんの、『それでも、ブログには「観客」が必要なのだと思う。』というエントリーを読んで驚きました。
http://fujipon.hatenablog.com/entry/2013/12/03/130341
まつたけ(id:denpanohikari)さんの「ビッチは殺されて当然か」「自分は観客だと思っている人たち」という二つのエントリーを読んで、僕も映画「サマーウォーズ」を思い出したからです。
http://matsutake.hatenablog.jp/entry/%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%81%E3%81%AF%E6%AE%BA%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%A6%E5%BD%93%E7%84%B6%E3%81%8B


サマーウォーズのおばあちゃんが実在したら「そんなはしたない娘は殺されて当然じゃ」ぐらいのことは普通に言いますよ。
ただ、僕の両親や親戚の人たちが特殊なのかって言ったら全然そんなことなくて、世の中にはそんな悪意はありふれてるんですよね。
じゃあ偉そうなことを言ってるお前はそういう人を説得する言葉を持ってるのかと言われたら、持ってませんごめんなさい、としか言えないんですよね。すみません。
世間の悪意って自分にはどうしようもないことなので、うまい距離の取り方と身の守り方だけを考えるのが一番いいのかな、という毒にも薬にもならないことしか言えません。
最後に、偏見丸出しで書きますが、「どうして人はネットだとひどい生き物になってしまう(人が多い)のか」という問いへの答えは、「そういうひどい生き物にリアルで会わずに済むような環境で育って良かったね。」だと思います。
ビッチは殺されて当然という人たち、と会わずに済んできた人たち

正当性があれば、批判(誹謗中傷)をしてもよいと考える人が意外と多いと思います。だから、正当性がないことを示しても、無意味だと個人的に思うし、また、正当かどうかという問題ではないと思います。

たぶん、それは倫理的な問題だからです。


「人に恨まれることを多数して、その誰かに殺されました」という事例を考えてみてください

・殺されて当然
・殺されても仕方がない
・同情はできない
・殺人はダメだけど、加害者に同情する

表現方法はいろいろだけど、本当はそんなに大差ない可能性もあるわけです。
どこからならOKなんでしょうか?

これ書き方をかえて

「悪人が社会で悪行をしていました。で、その被害者の一人に悪人は殺されました」という風に・・・。

殺されて当然?

人権派の人は、この段階でも殺されて当然とは思わないんですが、現代日本の現状ではそれは多数派なのでしょうか?

または、記事の書き方や属性に依存するのは、差別や偏見ではないんでしょうか?


社会なので、最低限の合意を求めるべきだと思う

どんな理由があろうと、殺人はダメだということです。

でもねぇ、殺人行為に近いけど、殺人じゃないものはいろいろあるとおもうけどね。

そういう意味でも、社会の認識や、過去の認識に依存する部分も多々あると思う。


高学歴とか、育った環境とかもあまり関係ないかも

高学歴(インテリ)は、そういう方向で差別的な発言をする人が少ないというだけで、違う方向で差別的な発言や思想を持った人も意外と多いわけです。インテリ層の白人層の一部をみてみればわかるのでは?

また、人は相手をみて話すので、たとえば僕みたいにそういう話が嫌いな人に、「殺されて当然」とかいう話をしてこないだけなんですね。そういう意味では、観客が必要というのはあるかもしれないけど、それはそういう発言を見えにくくするだけで、実際には存在してるのと同じだと思います。

たとえば、「低学歴はこうだから困る」みたいなものは、それが事実であっても、暴力的なはずなんですが、インテリ(高学歴)の人は自身が理性的で倫理的だと思い込んでる人が多いので、気づかないだけ。

名誉棄損が事実に基づく発言でも認められるように、偏見や差別も実は事実に基づいているから違うという風にはならないということだと思います。

悪意や偏見と向き合う方法

特に自分自身の内面の「悪意や偏見」と向き合うには、たんに隠したり、消してもダメだと思う。まずは、そういう一面を認めるところからだと思う。

他人の場合はどうかというと、それも、単に言わせないとか、言った人を批判するだけでは、本当はダメだとおもう。それは、自身の内面の話を考えてみればよいかと思う。

倫理的な問題は、実は論理と相性が悪い

あと、倫理的な問題の場合も程度問題を考慮しないとダメだとは思います。

一律にダメという路線は、簡単明確なんだけど、論理とは相性がわるいと思います。

殺人は一律にダメ。
その論理を成立させるために、この行為は殺人でないという論理を導入すればよいのかもしれませんが・・。

差別や偏見は一律にダメ。
この論理を成立させるためには、この行為は差別・偏見ではないという論理を導入すればよい?

スポンサーリンク

コメントを残す

メールアドレスは公開されません。
また、コメント欄には、必ず日本語を含めてください(スパム対策)。