擬似科学かどうかにこだわると、逆に騙されやすい

しかしこの判断基準も絶対ではなく、うまく擬似科学を判別できないケースもある。
最後にそれを指摘して本稿を終わろうと思う。


まず理論が最先端過ぎて、定説が固まってないケース。
この場合はまだ科学の側が準備不足なので、「これまでの理論がくつがえる」事もありうる。
しかしこうしたケースではそもそも正しい理論がなんなのか誰も知らない状態なのだから、
いずれにせよ眉に唾つけてかからねばならない事には変わりが無い。

http://anond.hatelabo.jp/20130820225326


議論の論理性を検証することで、どちらが正しいかどうかを判断できるという思い込みがあると、騙されやすいのと同じで、科学かどうかにこだわりすぎると、逆に騙されやすい可能性がある。

それを信じることで、どのようなリスクがあるか?

たとえば、科学的な説明でメトルダウンを起こしているはずはないというはなしと、非科学的な説明でメトルダウンしている可能性があるという説明があり、科学的な説明のほうを信じるべきだと思い、メトルダウンしてないというのを信じました。

で実際は、メトルダウンは起こってました。でも、科学的な説明では、厳密にいうとそれはメトルダウンじゃないと言い出しました。


たとえば、こういうケース。
リテラシーというのは、正しさを見分けるものでなくて、自身が危険に合いにくい情報を直感で感じることだと思う。


ただ、社会秩序を守るためにもリテラシーという言葉が使われるので、リテラシーといってもそういうのとは性質が違うと思ったほうがよい。社会秩序を守るためには、少数の犠牲は仕方がないとする考えですね。

パニックになって大勢が不幸になるより、パニックにならないで少数の人が不幸になるほうがマシという考えです。


許されるデマ?と許されないデマがある

デマというだけでは、同列には世の中の人は扱わない。またデマというだけでは、法的責任も同じようにはならない。

なぜならないのか?

カルトな宗教はダメで、古典的な宗教や信者の多い新興宗教はなぜOKなのか?

疑似科学はダメで、宗教はOkだという人も結構いますが、その理由の一つとして、疑似科学は科学の形態をとる悪質さがあるからみたいな説明があります。

しかし、古典的な宗教でも、科学との融合(つじつま合わせ)があり、それは問題とは(あまり)しません。なぜか?

偽物か本物かにこだわると…

たとえば、偽物なのにxxxx万円の価値があり、本物なのに数千円の価値しかないという場合もあるということ。

この場合、同一?のものなら、本物のほうが価値ある場合が多いという真理を、いつも間にか、「本物には価値がある」と思い込んでいたというケースですね。

逆に、偽物だというのが事実で、安値で売ってしまった場合も、それに価値がある場合は、騙されることになります。


その他

・言葉の定義にこだわると
・情報ソースがあるかどうか?
・情報ソースが信用できるかどうか?


思いついたら書きます。
なにかにこだわると、本質を見失うリスクがあると思います。

科学は、信じる対象ではない?!

しかし、科学的素養がある程度では、その道の専門家でない限り、最終的には信じる・信じないの世界になるのは明白です。
理解できることを目指すのなら、リテラシーは必要ありません。リテラシーは、知識量の少ない人にこそ有効なものです。



正しい

・正しい範囲
・正しい前提条件
・正しいが意味していること

たとえば、どの程度のリスクと危険があるかを知りたいのに、いつの間にかメトルダウンしてるかしてないか?にすり替わってしまうというふうな具合。

関連記事

人は、信じたいものを信じる傾向がある

スポンサーリンク

コメントを残す

メールアドレスは公開されません。
また、コメント欄には、必ず日本語を含めてください(スパム対策)。