逃げを認められないのは、コミュニケーション下手に多い

  • 投稿 : 2013-02-04
  • 更新 : 2014-07-01

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ネットで「逃げる」ひとがいる。
現実社会では言ったことをなかったコトにすることはできないのに、ネットではできるから、と言って。
実際、かなり迷惑だ。実体験から言えば、Facebookで、後輩の女子とちょっと議論になり、彼女が僕に反論する投稿をして、僕がアラートでそれに気づき、さらに投稿しようとしたらその書き込みはない!というのがあった。
卑怯だろ。
やっぱやめた、というのは卑怯だ。議論というのは、お互いが一回でも応じて、始まってしまったならば、「先送りしましょう」でもいいから、何らかの結論を出す必要がある。
例えば今回のFacebookだと、僕が最後に投稿した形になり、まるで誰にも受け入れられない主張を押し付けるピエロみたいになってしまった。酷い。まさに卑怯だ。
https://anond.hatelabo.jp/20130202205110

議論はどちらかがやめたいといえば、結論が出なくてもやめるべき

議論に対する勘違いがあって、コミュニケーションの延長の議論は、どちらかがやめたいといえば、やめなければならないことの方が普通だと思います。

相手が議論をやめても、主張を続けることは自由です。

議論と会話との境目は本当はない

議論というと何かを探求して、結論を出す作業に思う人がいるが、多くの場合の議論は、会話とそんなに違いがない。

また議論と言っても、目的によって違う性質を持つというものである。会社の会議の議論と、大学の講義で行う議論、ネットでかわす議論、すべて違う性質をもつものです。

議論というのは、相手も議論だと認識してるとかそういう共通意識がある程度形成されていないと成り立たないものです。

また議論と、説得・交渉とはまた別物だと考えたほうが無難です。

正しいからといって、人間関係が楽しくなることもない

コミュニケーションというのは本来そういうものです。正しいことをいうけど、周りから嫌われている、迷惑だと思われている人だっています。

どっちかというと、正しすぎる人は、便利に使えるけど、一緒にいて楽しいと思えないことの方が多いかもしれません。

逃げを認められないのは、コミュニケーション下手に多い

逆に、コミュニケーション上手なら、相手が逃げてもほとんど何も困りませんし、ピエロになることもないです。

議論のやり方でも、あえて、相手に逃げ道を与えるとか、反論をできるようにしてあげるとかそういう手法さえあります。

ネットで有名な人でも、過去の汚点は削除してたりするよ

炎上したので、記事自体を削除して、何もなかったかのように・・。でもって、その人のそれまでの主張は、いったん書いた記事は削除すべきでないという主張だったんですね。

そういう事実をいまだに覚えている人たちもいますが、あえてこういうことがあったよとぶつけないわけです。でもって、知らない人は全然知らないし、削除済みなので、検索とかでも引っかかりません。

また、「この人では炎上したのを見たことがない」というコメントがついていても、本人も周りも知らんぷりです。

実際、その人はコミュニケーション上手なので問題ないわけです。コミュニケーション下手が同じことをやると、過去の汚点のキャプチャーとかを持ち出してきて、粘着される可能性はあるかと思います。

現実社会でも、言ったことでも無かったことになるよ

だからこそ、カスタマーサポートの電話は録音しているわけだし、何か重要なことはちゃんと書面に書かせるわけですよ。

しかし、事実関係はそのことで証明できますが、それを下手に使うと人間関係を破壊しますし、自分自身の立場を悪くすることもあります。正しいこと、何も悪くないことと、現実の人間関係やそれに付随する物事は、リンクしないわけです。

議論で勝つことは一つの力だけど、もっと別の力もあるということ

正論などの正しさは、一つの力だけど、もっと違う力もあるということ。パワー合戦になった時に、もっと違う理不尽な力に、正論は負けてしまうことも多々あることも忘れてはいけないと思う。

本当に議論がしたかったの?

引用先の件はどうだか私にはわかりません。しかし似たようなケースに対して、本当の問題点に対しても、目を向ける必要があるかと思います。


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